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たたら事業
Cross Talk
山を守ると共に、
人を、地域を、自然を、文化を育む
『たたらの里づくりプロジェクト』。
6年目を迎え、立ち上げメンバーが
これまでを振り返り、これからを語る。
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副部長 福島孝志
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里長代理 井上量夫
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里長 田部長右衛門
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部長 井上裕司
①人口減少に抗う
きっかけは、里長が衝撃を受けた
ふるさとの“現実”。
田部グループの原点である雲南市吉田町は、
深刻な事態に直面していた。
井上ゆ:「始まりは2017年、吉田中学校の講演会でしたね。」
田部:「あの時僕は、全校生徒が38人しかいないと聞いて焦ってしまった。これは僕らのせいじゃないか、たたらを明治維新のときにゲームチェンジできなかったからじゃないか、と。そこですぐ、『たたら事業部を作ります』と宣言した。井上さんはそのときどうでした?」
井上:「私は社長からメンバーを何とか募ってくれという話をいただき、これは本気だなと感じました。25代はこれをライフワークにされたのかなと、そのとき思いました。」
田部:「そのときまで僕は25代目田部長右衛門として、仕事と会社の今後の方向性を決めかねていました。何をやったら一番いいのか、何をやったら地域のためになるのか…ということが定まっていなかった。あの時、降りてきたんですよね。これだ!と思った。いつか自分は田部家のお墓に入る。そこには歴代のご先祖様、そのご親戚や奥様など何百人もいらっしゃるわけですよ。その人たちに『25代目、お前は何やっちょった?』と言われるのが一番つらいなと思っていた。ご先祖に喜んでもらうには、吉田をどうにかすることだ、とそのときに感じました。皆さんは初期メンバーに抜擢されてどうでした?」
井上ゆ:「私は吉田中学校の授業のときに現場にいたので、『社長は自らの退路を断たれたな』と、そして、『自分もこの船に乗らなきゃ』とすぐ思いました。メンバーに選ばれたのは自然な成り行きでしたし、ある意味では『自分のやるべきことも見定まった』という感じはありました。結果的に私たちは吉田の子供たちや住民の皆さんに気づかされている。あれから毎年彼らと話す中で、我々もアップデートされているんですよね。考えが整理されるし、やっていきたいこと、やらなきゃいけないことが見えてくる。今となっては非常に貴重な機会をいただいたんだなと思います。」
田部:「この前吉田中学校で話をしたら、生徒が23人になっていたんですよ。もうちょっと我々も褌締め直して頑張らないかんな、と思います。校長先生によると、保育園では0人の代があるそうです。いずれ小学校や中学校で一つの学年の生徒が0人というときが来る。これは、我々にかかっている。定住者を増やさなきゃいけないから、まずうちのスタッフや、いろいろな事業で募っている人も含めて、吉田に住んでもらわないとダメでしょう。僕も月何日かでも吉田に泊まるようにしていかなければと、改めて思いました。」
井上ゆ:「子供は15人減っていますけど、もう人口そのものも300〜400人減っているんです。もう去年の年末ぐらいで1500人を切った。そこは喫緊ですよね。」
②山の役割とは
オリジンは“山”にある。
昔ながらの切るだけの林業、
その先に見出したのは
「楽しめる山づくり。」だった。
田部:「このプロジェクトをやろうとなった時、福島さんはメンバーに入っていなかったんですが、プロジェクトの話を聞いてどう思いましたか?」
福島:「私は入社して20年余り、山林の管理を任されてきました。山を良くしようっていうことだけやってきたものですから、恥ずかしながら、たたら事業部の話を聞いた時は、たたらというものを知りませんでした。 一体自分に何ができるんだろうか…という気持ちで、少し、いや、かなり不安な気持ちでいっぱいでしたね。ただ、自分自身は色々なことができる人間だと思っていますので、何でもチャレンジしてやろうという気持ちは常に持っています。」
田部:「僕らのオリジンであり、このプロジェクトの根底となることは、“山をきちんとやっていく”だと思います。先祖伝来の山に私の代になって桜の木を植えたりしているんですが、今後我々はどうしていきますかね?」
井上:「このプロジェクトが始まって以来、山を見る間口が広がりました。いろんな意味で皆さんに山に来ていただいて、山から出てきたものを皆さんにお届けする形になりつつあると思います。そういったものを磨き、伝える。山で動く人間も含め、みんながステップアップしていくことができるようになるといいですね。」
田部:「今までは“切るだけの林業”だったじゃないですか。我々はあれだけの山を持っているのだから、もっとクリエイティブに在りたい。桜の木を植えて春に花見に来てもらおう、山菜が採れる山を作ろう、夏山で魚を獲って遊べる場所を作ろう。秋にはキノコが採れ、紅葉が見れ、冬は雪で遊べるスノーパークを、または獣が獲れるとか…。一つ一つコンセプトを作り、これから追求していかなければいけない。そのあたり、福島さんはどうですか?」
福島:「私が入社した頃は間伐をしていない杉・檜の山が多く、保育事業が盛んな時代でした。そこで遊ぶ、楽しむという観点はなかった。けれど“楽しめる山作り”というのは、山だけじゃなくそこに住む人、来る方も視野に入れた、環境作りになっていくのかなと思います。」
田部:「S林業の奈良の吉野の山に、皆で見学に行ったことがありましたよね。間伐され、樹齢200年もの素晴らしい大木が等間隔に並び、その隙間から光が落ちてくる、すごい山なわけですよ。今からあんな山は作れなくても、我々が工夫すれば今の山をもっと素晴らしいものにできる。未来的にはああいう山になってほしいと思いはするけど、もっと違う山にできたらいいなというのがあって。そこはやっぱり、我々のたたらの里の事業が原点だと思います。ずっと針葉樹を植えてきたけれど、これからは栗、胡桃、桜、水楢などを植えていきたい。山を作り、そこで葉が落ち土になり、土が雨で染み出し、川に流れ、宍道湖に流れ込み、宍道湖から中海に、日本海に流れていく。大きな流れの中で、それがまた我々のこの土地に帰ってくる。 そう考えると、川上の我々がやることはものすごくたくさんあるわけです。昔は山の木を切らせてもらって、山を崩して砂鉄を採ってきた。今、我々は山に恩返しをする時期なんですよね。そういうことも踏まえて、これからの山を考えてみたい。 でも今はそう思うけど、始まったときはここまで固まっていなかったですよね。たたらを復活させれば、そのたたらから製品を作って売れば、何となく産業になりその売り上げで地域よみがえると思っていた。浅はかだったね…。」
井上ゆ:「今となればそうですが、当時はそれだけでもかなりのインパクトだったと思います。社内的にもだし、周りの方からもいろいろ言われたじゃないですか?」
田部:「本当にやるんですか?頭おかしいんじゃないですか?とね…。」
井上ゆ:「言われましたね…。」
田部:「村下(むらげ)がいない、文献が残っているわけじゃない、たたらのやり方もわからない、というところから始まって、手探りだった。」
井上ゆ:「いや、もう、いろいろ雑音がありましたが、やることは一つだった。真っ直ぐ走っていくだけだったんですよ。難しいことはあったし成果物もまだまだだという段階だったんですけど、あまり迷いはありませんでしたよ。」
③たたらの未来
大正時代に途絶えた田部のたたら操業。
100年の時を経た、
たたら復活は感慨深いものだった。
その日の思いを胸に、
プロジェクトメンバーは
これからを見据えている。
田部:「最初のたたらで送風機にスイッチが入ったときに、結構、うるっときたんですよね。」
井上ゆ:「私はたたらをしっかり仕上げようと緊張していたので、スイッチオンのときじゃなくて、鉧が出たときすごく感傷的になりました。見に来た町の人も作業に携わる人も、みんな良い顔をしているのが嬉しくて…。そのとき、『大正時代にたたらを辞めざるを得なかった先輩方が見ておられるかな』、とふいに思ったんですね。その話をすると、今でもちょっとうるっとくる…。」
田部:「当時は苦渋の決断だったでしょうね。田部家は大正初期まで400年も、主力事業としてたたらをやってきたわけですよ。
テレビ局がテレビを辞めるような話だから、たたらを辞めるのは悔しかったはず。でもあのときに、もっとこういう商品(玉鋼のナイフなどの製品)を作ったり、小鍛冶であるとか鋳物の仕事などをやっていたら…と思うんです。『大鍛治ぐらいまではやるけど、小鍛治の仕事なんかやらない』というような、妙なプライドがあったんじゃないかなと勝手に想像しています。でも結局そういう人たちが外に出て行って、車の部品などを作り出して自動車メーカーができていった。我々も車メーカーになっていた可能性もあったはず。それを考えると、今から我々ができることはあると思います。皆さんは今後どんな商品を作っていきますか?」
井上ゆ:「ここまでは、できた鉄を加工できる人を探して、その人が得意な形にしてもらっている。だから商材はデザインを含めて結構バラバラなんですよね。ある程度、我々のデザインなり意志なりを反映したものを、品ぞろえを考えて作ってもらう方向で今後はいきたい。さらに言えば、我々の手で最新プロダクトを作るところまで昇華させる必要がある。」
田部:「そこだね。現状は外部の方に頼んで作っていただいている。次の段階では、自社で職人さんを養成して、2人がプロデューサーになっていく必要があります。外部の職人さんと一緒に作るのは大変でしょう?」
福島:「お客様のご要望に合った商品を生み出すには、まず原材料の加工から始まるので時間もかかります。大変なのは大変ですが、お客様や職人さんとのやり取りも楽しんでいますよ。でも、やはり自社には職人がいないので、工房に伺うと、賑やかな音が聞こえ、私達にはないものがそこにある…。それはとても悔しいですね。」
田部:「やはり次は職人さんが必要ですね。さっきスタッフが吉田に移住するという話をしましたが、職人さんたちにも住んでもらいたい。最近は空き家もたくさんあるわけでしょう?」
井上:「そうですね。地元の方が住み替えで残していった家などもたくさんあります。例えば退去まで80年ほど使っていて、さらにその方の前の代も住んでいたというような、歴史がある住居も多い。昔を偲べる造りにして、どうにか生かしていきたいです。」
④街に成功体験を
吉田の街づくりもプロジェクトの
重要なテーマになっている。
地域の人と手を携え、
どのように未来を描いていくか。
各人が思いを語った。
田部:「僕らがやっている事業に関する街の人の声も聞こえていますか?」
井上:「『いろんな方が訪れて、新しい顔が見えると何となく元気になる』ということはよく耳にします。」
田部:「地域の皆さんを巻き込んだ企画をもっとやっていかなきゃいけませんね。僕らが前に行き過ぎているから、住民の方は置いてけぼりになっている様子が若干あると感じていますが、どうしたらいいでしょう?」
井上ゆ:「吉田はこの100年間、成功体験がなかったんですよ。小さいことはあったかもしれませんが、基本的には人口減少と同様に成功体験に恵まれなかった街だと思います。外部の方から評価されるような、住んでいる方々が誇りに思えるようなことを一緒にできたらいいなと思うんですが…。何がいいでしょうね?」
田部:「僕らは食料自給100%実現のための事業も進めています。地元の方が豆腐を作ってくださったり、地元でお店を作ってもらったり…。そういう形で関わってくださるのも良いと思います。職人さんやうちのスタッフが吉田に住むようになったときに、ご飯を食べられるところを作ってもらえるとか。これから綿密に議論して、地域の人の巻き込みをもっとやっていかなきゃいけない。今年、あの車庫だったところを建屋にするじゃないですか。あれである意味、街のデザインが変わってくるわけですよ。入口のところに我々が桂の木を植えましたが、あれだけでも相当雰囲気が変わった。市町の人たちの受け止め方も変わった。やっぱり今は実感が必要だと思う。街が変わっていきます、僕らがやっていきます、だから乗っかってくださいねという形が大事。少しずつそれが進んでいて、今度古い空き家を宿泊施設に変えるじゃないですか。ああいうところができたり、空き家が埋まっていったりするさまを実感していくと、もっと皆さんから意見が出るだろう思います。ところで、僕は吉田の路地が結構好きなんです。歩くとすごく良いんですよ!」
井上ゆ:「良いですよね。でも地元の人は気づかない。地元の子供たちに、『君たちが食べているものはめちゃくちゃ贅沢だよ』『当たり前にその辺で採れたお米を食べているけど、それが贅沢なんだ』と話すことがあります。でも普段はわからないわけです。大人も一緒なんですよね。あの路地は、ただの家の前の道。だから、外の人が見に来て『すごく面白い』と言うのを直接耳に届けてあげる必要がある。その価値にもう1回、地元の人に気づいてもらいたいです。」
田部:「あの地域を歩いていると、小さい畑とかがあるじゃないですか。トウモロコシやトマトを作っていたりして、生活があって、雰囲気もいい。これからの村づくり・街づくりの中では、そういうところをどう生かしていくのか、細かいところをもっと我々自身が勉強して、地域の皆さんともっと話をして、形を作っていかないといけないなと思います。」
⑤人の心を惹く“コト”
2023年、吉田に
フィールドアスレチックをオープン。
県内外から集客があるが、
メンバーはそれだけで満足していない。
メンバーは山を起点に、
新たな賑わいの創出を目指している。
田部:「いろいろやっていきますが、とりあえずその形を住民の方に見せていくものとしてフィールドアスレチックができ、県外の方が来始めていますよね。これからどういうものを県外に発信していきたいですか?」
井上:「フィールドアスレチックを中心にして、そこからまた山へ入っていっていただきたいですね。キャンプもあり、山の散策もあり…、いろんなことを楽しんでもらいたい。」
田部:「1回行ったらそれで終わりになってしまうと良くない。アスレチックを起点にして人が集まる仕掛けが必要です。 今、広島県や愛媛県など、山陽側と四国からも来ていただいているデータがあります。ただ、遊んで終わり、泊まるところもありません、ご飯を食べるところもありません、というのが現状。このあたりが喫緊の課題ですよね。来年吉田に『たたらば0番地』を作ります。あのプロジェクトに対する思いはどうですか?」
井上ゆ:「フォレストアドベンチャーはきっかけだと思っています。我が家ですら、子供たちに『今日たたら場に行こうよ』と言っても『たたら??』という反応。なんだか難しそうだ、遠いから行かなくて良いじゃん…となるんですが、『フォレストアドベンチャーに行こう』と言ったら家族一緒に行くんですよ。それってすごくいいきっかけなんですよね。深く知っていただくコンテンツが0番地にあり、そこでたたらを知った上で、今度は吉田の街の中の文化財に入っていく…という流れを作っていきたいと思います。先ほどの山の話もそうですし、食もですよね。山の恵みをいただくような食がそこにあり、食べてみたところに『そもそもなんでこんなにうまいんだ?』『どうやってこんなにいいものができてるんだ?』ということを紐づける。そういう装置を0番地に求めていきたいです。」
田部:「そういうのも楽しみだね。たたらを常時見せられるものを作りたいんだけど、福島さん何かアイディアはないですか?」
福島:「やはりVRなどの技術を使った疑似体験と、あとはアナログなんですが、吹子を使った送風体験などもあるといいですね。」
田部:「足で踏んで風を送る天秤吹子ですね。それと、例えばかんな流しという、山を崩して砂を川に流して砂鉄を採っていた、あれの疑似体験はできる。他には炎を見せたいよね、やっぱり。」
福島:「2018年に出雲大社様からいただいたご神火があるので、その火をモニュメントとして灯す以外にも、何か有効活用したいです。」
田部:「ずっと燃やすとなると、ガスだとあまりエコじゃないですね。どうしたらいいのかな?不滅の法灯のように見せるのもありだけど、来た人たちは、ぐわっと燃え上がっているような炎に魅力を感じるのでは…。以前、大阪の太陽の塔の前でたたらをやったじゃないですか。あのときは人だかりができて、400人も500人も見に来た。やっぱり火がパーっと舞い上がっているのを見るから、迫力も説得力もある。たたらを365日見せるためにはどうするか。VRやARのような最新のテクノロジーを使って見せるのもいいと思うし、アナログ的に見せる企画もやはりあると良いですよね。」
井上ゆ:「定時に…、例えば午後の3時でもいいでしょう。炉に火を入れ、炎が上がります。30分見てもらい、その後、皆さんに火をお配りして焚き火をする、というのはどうでしょうか。火を“我がこと”として皆さんにお返しするという…。ランタンなどを持参して持って帰る人もいるかもしれない。そういう形で火を配ってあげるのは面白いかもしれません。」
田部:「焚き火はいいですね!最近はキャンプ場で使える焚き火用の道具とかあるでしょう。薪も割ってもらったら良い。種火があってもなかなか着火しにくいかもしれないけど。」
井上ゆ:「ミニ吹子も使ったりして。」
福島:「教育の一環として火の付け方や消し方も体感してもらえると良いですね。」
田部:「最近は手が切れるからと学校で彫刻刀が使えなかったり、すごくおかしな教育になってきている。きちんと炎を見せて教えてあげるのは大事ですよね。テーマは炎だね。あとは冬の集客。これが一番問題だね。」
井上:「最近の温暖化でちょっと少なくなっていますけど、本当に雪景色は綺麗ですよね。」
田部:「僕が小さい頃は80センチから1メーター以上は積もっていた。最近あまり降らないから雪の他に何かないか…。北海道の人たちは冬に旅行客が来てくれないかさっぽろ雪まつりを企画した。ニセコなどのスキー場は、リゾートにして高級志向で外の人を呼び込もうとしている。我々の吉田はアクセスはいいはずなんだよね。松江から車で45分、広島からも1時間半ぐらいで来れる。そんなにアクセスが悪いところじゃないので、仕掛ければ人が呼べるはず。」
⑥新世代のプロダクト
復活したたたらは
さらなる新しい展開を迎える。
玉鋼の生産を増やすことによって、
どのような変化が起こるか。
各人がビジョンや理想を語った。
田部:「今度は三日三晩のたたら操業をやりますけど、今準備の方はどうですか。」
井上ゆ:「粛々と進めています。これは、2018年にたたらを復活させようと決まった時と一緒で、もう前を向いて走るしかない。1つずつ準備して、資材や建屋・炉の構築などいろんなことをやっていくんですけど、すごくわくわくしているんです。『三日三晩も操業するのはつらいわ!』というより、それを準備している、携われているということも含めて期待の方が大きいです。」
田部:「福島さんは今後、鉄を使ってどんなものを作りたいですか?」
福島:「井上執行役員もおっしゃったんですが、商品カテゴリがたくさんあってバラバラになっているんですよね。安定した生産量になると、例えば刃物なら刃物に傾注して商品開発ができる。その流れの中で、キャンプ用の調理器具は作りたいと思っています。また、大量に鉄を使えるなら芸術にも提供したい。たくさんの人が見て楽しい作品を作っていけたらいいですね。」
田部:「今、実は、芸術家の先生たちを少しずつ吉田で集めています。街中に我々の鉄を使ったモニュメントや芸術作品を配置していくことをやり始めているんですよ。現段階ではうちの鉄では量が足りないのですが、いずれは福島さんが言うように我々の生産したものを使って作品を作ってもらう。街を歩き路地を通り抜けると、すごく先鋭的な芸術作品がぱっと出てくる。『こんなところにこんな作品が置いてある!』という驚き、いいですね。」
井上:「私は仏具ですね。仏具は家(うち)にずっと残す、先祖代々渡していくものなんです。」
田部:「仏像、おりん、燭台、香炉、香炉箱など、いいですね。」
井上ゆ:「私はすごくシンプルですよ。お皿が作りたい!テクニカルな話になるんですけど、プレートを作るにはある程度鉄の量がないと難しい。プレートにまずトライして、できたら薄い皿を作りたい。」
田部:「三日三晩の操業で生産量が増えれば、もっと何でも作れますね。今はどうしても生産量が少ないので小さいサイズ感になってしまうから。普通のお皿だと熱が逃げるけど、玉鋼なら熱が逃げない。ステーキを乗せる鉄板のような作用があり、かつ、格好良い。僕はフライパンを作りたいです。フライパンもいろんな種類があるんですよ。プロの料理人は卵のにおいがつくから卵専用のフライパンを持つんです。うちは卵の生産もやっているし、プロ用の卵専用のフライパン、いいと思いますよ。あとは、キャンプ用のライスポット。うちの玉鋼で作ったら熱伝導率がいいので、すごく美味しいお米が炊けます。それに吉田のお米を付けて、吉田の水も付けて、掛合で漬物があって、お味噌を作って醤油もあって…。」
井上ゆ:「昔は、たたらで生産した鉄を全国に配っていましたよね。今も金物加工の産地が各地にそれなりに残っている。そこに、もう一度玉鋼を配り直したい。もちろん包丁などの製品は自社で作るようにもします。同時に、全国各地の匠にも材料をお配りして、製品になったものを戻していただく。そういう集積の仕方もしてみたいです。」
田部:「やってみたらいいじゃないですか。僕はもっとみんながやりたいことをぶつけてほしい。作りたいものを作ってほしい。でも多少売れるものでなければいけないけど…。あなたたちはそういう目で考えるのも仕事ですしね。」
⑦終わらない旅を
未来へ向かって走り続ける
『たたらの里づくりプロジェクト』。
そのゴールとは。
自然や文化、人など、
それぞれの角度から語り合った。
田部:「最後に、我々のたたらの里は最終的に何がゴールなのかな?」
井上:「“人を作る”じゃないでしょうか。小さい子もそうだし、住んでいる人もそう。関わった人みんなが、山から何かもらって地球人になる。たたらの里はそういう場所だったらいいなと。」
福島:「私は昭和の人間で、自然とともに幼少期を過ごしました。時代が変わっていろいろと便利になった部分は多い。しかし、今とこれからの子供たちは、最近の世の中の流れだとできないことがたくさんあるでしょう。自分たちの世代が経験したような自然体験を、今の吉田ではできるのではないでしょうか。木を知らない子供が木の家を建てないのと一緒で、小さい頃から木に触れ合う、山に触れ合う、自然で遊ぶというのは大切だと思っています。」
井上ゆ:「常々言うんですけど、いろんなところでお話をしたいなと思います。我々は少なくとも500年以上、吉田で生業をさせていただいてきた。直近だけではなくもっと先のことまで考えられる会社だと思うので、100年後ぐらいまではある程度具体的にイメージしておきたいです。そうすると、たたら製鉄が全盛だった江戸時代末期か明治初頭をピークに置いてはいけない。そこで失ったものをただ取り返すだけじゃいけない。昭和の頃の山を取り返すというのももちろんですが、未来としては何か違う形のものがきっとあるはずだと、実は思っていて。その答えはまだないんですが、常に考えています。だから一言でどんなものがゴールとは言えないんですが、そういう感覚を持ってやっている俺たちが格好良ければ、たぶん後の人が続いていくと思う。そういう意味で、今の精一杯をやっていきたい。」
田部:「ゴールなんかないわけです。ずっと続いていく。正直に言って僕の代で事業が全部完成する必要はないし、逆に完成しちゃ駄目だとも思う。僕の息子たちが全員うちの仕事をするかはわからないけど、自分なりの感覚や、その時代の感覚でこれから紡いでいってくれればいい。終わりはない。いずれ我々の作った山に後の世代が来て『これはかなわんわ』と言う山になっていたり、たたらが復興し玉鋼のプロジェクトが星の数ほどできていたり…。我々は世界にこれを伝えていくことが大事で、世界には刃物の産地がたくさんある。そういう中に吉田というブランド、我々の田部というブランドが、世界中に伝わって残っていったらすごいですよね。伝わっているからこそ物は残っている。伝わらないものはもう残っていかない。その中で、あまりこだわりすぎず、伝統ではなく革新を続けていかなきゃいけないなと思っています。
これからも長い旅ですけど、足腰立たなくなるまで、一緒に頑張りましょう。よろしくお願いします!」