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田部家の歴史
- 略歴
- 歴代当主
田部家 略歴(鎌倉時代〜現在)
鎌倉時代 | 遠祖は紀州熊野の庄「田辺家」の別派で、熊野別当田辺湛増の孫、田辺隼人正が頼朝配下の武将山内周藤家に仕えたとされる。 | |
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1246年 後裔田辺安西入道が吉田村に入部したと伝えられる。 | ||
室町時代 | 1460年 田辺彦左衛門(鉄山元祖)が神夢により川砂鉄を採集し製鉄を始める。 ※田部家では彦左衛門を初代としている。 |
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戦国時代 | 四代惣左衛門のとき戦乱のため製鉄ができなくなり、一族を率いて蔀山城(現在の広島県庄原市高野町)へ入る。 | |
江戸時代 | 江戸時代前期 六代與三兵衛(鉄山中興) 吉田へ戻り製鉄を再興する。板踏鞴を導入し鉄の生産が増加する。 | |
1646年 最初の永代たたらを粟原に開設する(1646-1688)。同じ頃、鍛冶屋を数箇所開設する。 | ||
1662年 吉田町の町屋9軒購入する。 | ||
九代安右衛門の頃 「鉄山益々繁昌 金銀如山 米穀満庫」とあり。松江藩より屋号「前綿屋」を賜り、田辺を田部に改める。 | ||
十代長右衛門 松江藩より長右衛門を賜る | ||
1751年 菅谷たたら創建 | ||
1755年 十二代長右衛門 鉄師頭取に任命される。 | ||
1780年(1785年まで) 幕府により「鉄座」が設置され鉄価格下落。田部家も多大な影響を受ける。 | ||
1787年 松江藩七代藩主 松平治郷公 御成 | ||
1796年 松江藩が会津藩より400駄(一駄:馬に背負わせる1回分:136kg)の銑を受注し、北前船で新潟へ運び、阿賀野川をさかのぼって会津へ納める。 | ||
1802-1825年 年平均87回操業※1回の操業が3昼夜であり、年間通してほぼ毎日操業している。 | ||
1811年 松江藩八代藩主 松平齊恒公 御成 | ||
1862年 鉄価格急騰 | ||
江戸期から明治期にかけて、田部家の所有する山林は最盛期で25000ヘクタール(現在の大阪市と同じ広さ)まで拡大。(その他 田地1000ヘクタール・小作1000戸・牛馬1000頭 など) | ||
1865年 火災により吉田村の3分の2を焼失。母屋を現在地に移転。 | ||
明治時代 | 明治期 安価な洋鉄の輸入によりたたら製鉄は圧迫され始める。 | |
1892年 シカゴ万博に出展し受賞。 | ||
1899年 パリ万博に出展し受賞。 | ||
1901年 八幡製鉄所設立 | ||
大正時代 | 1921年 鈩鍛冶屋の事業を半減し、補足事業として普通木炭の生産を始める。 | |
1923年 たたらの火が消える。 「鉄業界の前途は暗黒にして、到底近き将来に曙光だも認めむべき模様も見えざるにいたり、遺憾ながら大正12年度末をもって現在の工場、菅谷鈩、大吉鈩、杉谷鍛冶屋、芦谷鍛冶屋の四ヵ所は廃業して木炭専業に従事す」 |
大正末期たたら廃業後の事業変遷
たたら製鉄廃業後、製炭業に従事しながら事業の多角化をすすめていく。
昭和 | 1940年 | 松乃舎病院(現島根県立中央病院)を設立 |
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1941年 | 島根新聞社(現山陰中央新報社)を設立 | |
1942年 | 松陽印刷所設立(印刷業) | |
1946年 | 丸田薪炭有限会社設立(山林業・製炭業) | |
1947年 | 日新林業株式会社設立(合板製造業) | |
1953年 | 丸田薪炭有限会社を田部林産有限会社に社名変更 | |
1967年 | 樹徳産業株式会社(現株式会社JUTOKU)設立(造園業) | |
1969年 | メディア事業に進出 島根放送株式会社 (現山陰中央テレビジョン放送株式会社)設立 |
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1972年 | ケンタッキーフライドチキンのフランチャイズ運営を開始 | |
1979年 | 田部美術館設立 | |
平成 | 1992年 | 田部林産有限会社を株式会社田部に社名変更 |
1996年 | 田部養鶏場 開設(養鶏業) | |
2014年 | 出雲湯村温泉株式会社設立 | |
ダノベータ インターナショナル設立 (冷凍食品ブランドプロデュース業) |
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2018年 | 2018年たたらの火が再び灯る | |
2019年 | 株式会社たなべの杜設立 | |
令和 | 2020年 | 株式会社TANABEグローバルキッチン設立 |
2021年 | 株式会社たなべたたらの里設立 | |
2022年 | 株式会社田部竹下酒造設立 |
田部家 歴代当主
室町時代 | 初代 | 彦左衛門 |
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戦国時代 | 二代 | 源右衛門 |
三代 | 五右衛門 | |
四代 | 惣佐衛門(通政) | |
安土桃山時代 | 五代 | 荘兵衛(通国) |
六代 | 興三兵衛(通年) | |
江戸時代 | 七代 | 五右衛門(年安) |
八代 | 五左衛門(安邦) | |
九代 | 安右衛門(邦年) | |
十代 | 長右衛門(元年) | |
十一代 | 祖右衛門(政信) | |
十二代 | 長右衛門(元義) | |
十三代 | 長右衛門(満雅) | |
十四代 | 長右衛門(安興) | |
十五代 | 長治郎(仲道) | |
十六代 | 穂五郎 | |
十七代 | 長右衛門(興真) | |
十八代 | 長右衛門(豊房) | |
十九代 | 松太郎(倍種) | |
明治・大正 | 二十代 | 長右衛門(周重) |
二十一代 | 長右衛門(長秋) | |
大正・昭和 | 二十二代 | 長右衛門(茂秋) |
昭 和 | 二十三代 | 長右衛門(朋之) |
二十四代 | 長右衛門(智久) | |
平 成 | 二十五代 | 長右衛門(真孝) |
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- 二十一代 田部長右衛門(長秋)
- 1850年9月11日~1942年2月14日(嘉永3年~昭和17年)
出雲の国能義郡母里村生まれ。1874年に二十代田部長右衛門周重の養嗣子となり、1885年に家督を相続して長右衛門を襲名した。少年の頃、母里藩に仕えて槍を学んだため、老年になっても人と接してひざを崩さず、正座を常としていた。1879年出雲国鉄師頭取となったが、洋鉄の流入により1923年和鉄経営を廃業した。殖産興業に力を入れ、積極的に他県から知識・技術を取り入れるなど、農業・畜産業・木炭業など郡内の有志が学ぶ機会をつくった。私費で製糸伝習所(1889年)、私立田部小学校(1874年)を開設した。政治面では県議会議員、吉田村名誉村長、貴族院議員などを歴任した。
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- 二十二代 田部長右衛門(茂秋)
- 1878年1月31日~1956年6月11日(明治11年~昭和31年)
島根県能義郡母里村生まれ。1897年に二十一代田部長右衛門長秋の養嗣子となる。1907年に吉田村信用購買組合を設立して組合長に就任、島根県農会副会長や日本勧業銀行島根県顧問、島根地方森林会議員など地域の代表を務めている。1926年に先代の隠居に伴い、家督を相続して長右衛門を襲名した。その後も貴族院議員をはじめ大日本山林評議員、松江銀行取締役など歴任し、農林業・金融業・教育文化等に振興発展に力を尽くした。1947年に家督を譲り、隠退。晩年は布袋像の収集を趣味として楽しんだ。
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- 二十三代 田部長右衛門(朋之)
- 1906年3月25日~1979年9月15日(明治39年~昭和54年)
二十二代長右衛門茂秋の次男として島根県飯石郡吉田村に生まれる。京都帝国大学卒業後、家業の山林事業経営に就く。早くから経営の近代化を志し、第2次大戦後は現在の㈱田部の基礎となる田部林産㈲など複数の会社を創設し、山林開発・合板製造など業界発展に貢献した。少壮から社会奉仕の志が高く、1940年には私財を投じて松乃舎病院(現在の県立中央病院の前身)を設立したほか、経営に行き詰った地元紙を合併して島根新聞社を設立するなど地方紙の育成にも努めた。政治面では1942年に衆議院議員となり、戦後は1959年に島根県知事に就任。「後進性打破」を掲げて3期12年の任期を地方自治振興に尽くした。また高い文化的識見をもち、県立の博物館や図書館・武道館など文化施設の整備にも尽力したほか、私人としても松江美術工芸研究所の創設や茶室「明々庵」の建設整備など文化的環境づくりに貢献している。個人としても幅広い趣味人であったが、とくに美術工芸、茶道への造詣が深く、楽焼を中心とする作陶は<松露亭芸術>として高い評価を受けている。
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- 二十四代 田部長右衛門(智久)
- 1938年7月22日~1999年11月7日(昭和13年~平成11年)
二十三代長右衛門朋之の長男として島根県飯石郡吉田村に生まれる。慶應義塾大学在学中の1959年、父の島根県知事就任に伴い、田部林産㈲、㈲松陽印刷所、日新林業㈱の代表取締役社長に就任する。1969年には島根放送㈱(現山陰中央テレビジョン放送株式会社)を設立して初代社長に就任し、地域のメディア事業を牽引するとともに、早くから関連事業としてIT産業にも進出するなど事業の拡大を進めた。1996年には日本民間放送連盟副会長に就任して、放送業界のデジタル化推進に寄与した。1980年先代の死去に伴い長右衛門を襲名、地域の経済界のリーダーとして数々の要職に就きながら、島根県経済を牽引した。また田部家伝来の調度品などを展示する田部美術館では初代館長に就任(1979年)。田部美術館大賞「茶の湯の造形展」を創設し、茶道美術の継承と新進陶芸作家の育成に注力している。また、自身も号を「松朋庵」として作陶にも励み、多くの作品をのこすなど文化人としても評価を受けている。